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第二次世界大戦後の赤狩りとハリウッドの黄金期の終焉 (前編)
  – 世界の映画史 (4)
  – 『素晴らしき哉、人生!』『黄金』『サンセット大通り』『欲望という名の電車』『雨に唄えば』 | CINEMA & THEATRE #056
2024/05/06 #056

第二次世界大戦後の赤狩りとハリウッドの黄金期の終焉 (前編)
– 世界の映画史 (4)
– 『素晴らしき哉、人生!』『黄金』『サンセット大通り』『欲望という名の電車』『雨に唄えば』

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Mickey K.
風景写真家(公益社団法人・日本写真家協会所属)

目次


1.プロローグ

CINEMA & THEATRE #054#055では、第二次世界大戦中のハリウッドを取り上げました。戦時中にアメリカの映画産業は政治的プロパガンダのための映画を数多く製作しました。戦場の様子をアメリカにとって有利に見えるように、枢軸国を“悪"あるいは“笑い者"として描きました。こうした映像によって、アメリカの国民と軍隊の士気は高まりました。一般向けの商業映画も、この戦争を支援・支持するように利用されました。愛国心や国民の団結を促したり、アメリカや連合国は“正義"や“自由"や“民主主義"のために戦っていたことを伝えました。また、映画館で長編映画の間に上映されていた短編アニメイション作品でも、ディズニーなどの人気キャラクターを利用し、戦時公債の購入を呼びかけました。このようにして、ハリウッドの映画産業はアメリカの戦勝に大きく貢献しました。

第二次世界大戦を経て、ハリウッドは成熟期を迎えることとなります。オーソン・ウェルズのような天才的な“演出家"は画期的な映画表現を試みました。ナチスの迫害から逃れてアメリカにやってきたフリッツ・ラングやビリー・ワイルダーなどを含めるヨーロッパの映画監督もハリウッドに新鮮な空気を持ち込みました。彼らはそれまでハリウッドが大量生産していた明るくて楽観的な“夢"とは異なる、暗くてある種の疑心が漂う“大人の作品を世に送り出しました。また、戦時中にアメリカ軍に所属し、プロパガンダ用のドキュメンタリー映画なども製作していたフランク・キャプラ、ウィリアム・ワイラー、ジョン・フォード、ジョン・ヒューストン、ジョージ・スティーヴェンズらは、戦線から戻ると、そのすぐ後に自身にとって最高傑作と呼ばれる作品を次々と製作しています。

一方で、戦後の20年間はハリウッドにとって波乱の時代でもありました。ハリウッドの8大ストゥディオによる映画市場の独占は、1930年代半ばから既に問題視されていました。第二次世界大戦の勃発で一旦保留になっていましたが、戦時中に映画というものが“自由"や“民主主義"などアメリカ的な価値観を拡散させるための道具となることに気づいたアメリカ政府は、戦後に映画産業に介入するようになります。

世界の政治は、第二次世界大戦が終わると、アメリカとソ連の間を中心とした冷戦が始まります。米国内では共産主義に対する拒絶反応が起こり、“赤狩り"(レッド・パージ)へと発展し、ハリウッドでも共産主義者や“シンパ"の“ブラックリスト"が作られました。ブラックリストに載っていた人々は、映画業界からじわじわと消えていくこととなります。こうしたスキャンダルで揺らいでいた映画業界に更なる追い討ちをかけたのが、テレヴィの普及でした。

今回は、ハリウッドの黄金時代の後期に当たる、第二次世界大戦が終わった1945年から、“古典的"ハリウッドが終わったとされる60年代末までの期間の作品を取り上げます。


2.ハリウッドのストゥディオ・システムの衰退

1920年代に入って、ハリウッドの大手映画会社は映画の製作・配給・興行を一貫してコントロールする、垂直統合(ある企業が製品やサービスを市場に供給するためのサプライチェーンに沿って、上流から下流までを統合して競争力を強めるビジネスモデルのこと)された“ストゥディオ・システム"というビジネス・モデルを確立していきます。大手映画ストゥディオとは、“ビッグ・ファイヴ"と呼ばれたパラマウント映画、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)、ワーナー・ブラザーズ、20世紀フォックス映画、RKOと、“リトル・スリー"と呼ばれたユニバーサル・スタジオ、コロンビア映画、ユナイテッド・アーティスツのことです。この8社はそれぞれ撮影所(文字通りの“ストゥディオ")に加え、配給システムと劇場のチェーンを所有するようになり、その劇場のネットワークを徐々に全米の都市部に拡大させていきました。更に、あの手この手を使って独立系興行主の自由を妨げていました。(“リトル・スリー"の劇場網は比較的小規模なもので、"ビッグ・ファイヴ"に頼る面もあったものの、その存在が認められていました。)

一握りの大手映画会社がアメリカの映画市場を独占するというストゥディオ・システムを成り立たせることができた1つの理由が、“ブロック・ブッキング"という戦術でした。ブロック・ブッキングとは、配給側と上映側の間で結ばれる映画作品の一種の賃貸協定です。製作会社が直営館と系列館以外の劇場に対して、複数(当初は20本以上)の作品の一括予約を押し付ける慣行のことです。1年間の作品の予約を強いられるケースもあったそうです。

これは、劇場側からすると、まだストーリーの肩書きと出演者しかわからない“プリプロ"段階の作品の予約をさせられ、その作品が“傑作"なのか“駄作"なのかを分からないまま、指定されたある期間中に上映することを約束することを意味しました。20世紀初頭のサイレント映画初期の頃は、劇場主が上映プログラムを決めていたのに対して、この時代においては特定の映画会社系統の作品だけが独占公開しされ、その先1年間の上映スケジュー

大手映画会社にとって、映画館は最大の収入源でありました。ブロック・ブッキングを用いることで、映画会社は作品の販路を安定化させ、映画製作のための予算を確保することができたのです。その代わりに、映画会社は約束した上映スケジュールを満たすだけの作品の本数を製作する必要があり、その結果、安直な映画作品を大量生産することになりました。その結果、映画会社のトップ・スターが出演した手の込んだ主力作品とは違う、質的に劣った“B級"(※12)の作品が数多く製作されるようになりました。こうしたブロック・ブッキングによって、ヒットが最初から見込めないB級のような作品でも上映期間を確保できる一方、いい作品がヒットしても決められた上映期間で打ち切られるという問題が生じました。

1938年にアメリカの司法省は、映画市場から自由競争を事実上奪っていた大手映画会社8社に対して、その慣行が独占禁止法に触れるとして訴えを起します。この訴訟は筆頭会社の名をとって「パラマウント訴訟」と俗称されています。事態を収めるために、ビッグ・ファイヴは1つのブロックを最大5作の長編と設定し、短編やニューズ映画をセットで押し付けないという同意審決を受け入れます。しかし、実際にはこの判決の条件に完全に従うことはせず、それに対して政府は43年に訴追を再開します。第二次世界大戦の騒動で問題は一旦保留となるものの、終戦の一ヶ月後には裁判が再び開かれ、最高裁判所まで持ち込まれましたが、最終的に1948年に独占禁止法に触れるとする判決が出されました。これにより、大手映画会社はブロック・ブッキングを完全にやめさせられ、それぞれの劇場のネットワークを完全に手放さざるをえなくなります。こうして40年間ほど続いたストゥディオ・システムは衰退することとなります。

一方、海外でもアメリカの映画会社による映画市場の独占を制限する動きが増していきます。そもそも黄金時代のハリウッドは売り上げの40%くらいを海外市場から得ていたといわれています。第二次世界大戦中にハリウッドを利用してアメリカの団結と強化に成功したアメリカ政府は、映画というメディアが国際的に持ちうる影響力に気づきます。戦後、アメリカ政府は第二次世界大戦で疲弊したヨーロッパ諸国に対して「マーシャル・プラン」という復興計画を推進します。その裏には西ヨーロッパを再建することによって、アメリカの商品や資本の輸出先を確保し、アメリカの資本主義を維持すると同時に民主主義を拡散するという狙いもありました。つまりそれには「ヨーロッパをソ連の共産主義から防御する」という一面もあったのです。その一環として、戦時中は滞っていたアメリカの映画やポピュラー音楽(ロック)の輸入が一気に復活します。ところがこの動きに対して、英国、フランス、イタリアなどの政府は、自国の映画産業の成長を保護するために、輸入されるハリウッド映画に制限を課します。このことはハリウッドのストゥディオ・システムにとってとても大きな打撃となります。


3.“エイリアン"に対する恐怖と“赤狩り"

アメリカの映画会社が1920年代にストゥディオ・システムというビジネス・モデルを確立した当初からハリウッド内には、“コミュニズム"と“エイリアン"(移民)に対する懸念が色濃くありました。

1917年のロシア革命によって200年ほど続いていたロシア帝国が崩壊し、ソビエト連邦社会主義共和国が成立されました。史上初の共産主義国家の樹立は、世界中で資本主義の搾取や貧困に苦しむアメリカを含む労働者階級の民衆に希望を与えました。一方で、第一次世界大戦を通じてアメリカ国民の間には強い愛国心が芽生え、煽られてもいました。この2つのことが重なったことによっていわゆる「第一次赤狩り」が起こります。この頃からアメリカでも製鉄業、造船業、採炭業などの各業界で労働者がストライキを起こるようになり、1919年には「アメリカ合州国共産党」が設立されました。アメリカでも労働者革が起こるのではないかという恐怖が資本家や政府の中に広がり、新聞はそれを更に煽ることで“エイリアン"(特にヨーロッパからの移民)に対する反感が掻き立てられました。

ヨーロッパからの移民が数多く活躍していたアメリカの映画産業は、特に風潮に晒されます。そんな中でも特にユダヤ系の移民は、様々な差別を受けながらも努力を続け、“ストゥディオ・システム"を確立し、ハリウッドを一大産業にします。彼らからすると、成功することでしかアメリカ社会で生きて行く道を認めてもらうことができないと感じていたのでしょう。ハリウッドが30年代に「ヘイズ・コード」を導入し、いかがわしい描写を自主的に禁止するようにしたのも、主にユダヤ系のエイリアンたちによって製作されていた映画作品をキリスト教(主にプロテスタント系)のアメリカ社会に受け入れてもらうための妥協策であったという見方もできます。

30年代に大恐慌の嵐が吹き荒れ、ヨーロッパに2度目の世界戦争の暗雲が垂れ込める中、アメリカ国民のエイリアンなものに対する不安や恐怖はより一層強まることとなりました。欧州での戦争への軍事介入に否定的であった東海岸のモンロー主義者たちは、進歩的で介入に賛成的であったハリウッドに対して強い疑念を抱くようになります。映画会社の経営者たちはかろうじて保守的な“ビジネスマン"であったかもしれませんが、映画会社に所属していた脚本家や俳優たちはアートという“堅気"ではない営みに徹する急進派(政治学において革命などの手段によって社会構造の変更を目的とする政治原理)として見なされました。彼らは1933年には映画脚本家組合や映画俳優組合を設立し、映画会社の経営者たちの反感を買います。同時に欧州でナチス党が勢力を増す中、ヨーロッパから亡命し、ハリウッドにやってくる映画人も数多くいました。それを受けて映画業界に対する風当たりはますます強まりました。

アメリカが第二次世界大戦に参戦すると、反共産主義の風潮は一旦静まります。アメリカもソ連も同じ連合国側で戦っていたからです。アメリカ共産党の党員数もこの時期に伸びたとされています。しかし、終戦後の1946年ごろから、ヨシフ・スターリンが率いるソビエト連邦が東ヨーロッパ諸国に影響力を持ち始めます。アメリカ政府は西ヨーロッパの国々に対して前述の「マーシャル・プラン」を推進します。こうして資本主義を掲げる“西側"と共産主義の“東側"の間で冷戦が始まります。

アメリカ国内でも共産主義への警戒心がピークに達し、「第二次赤狩り」が引き起こされます。その中心となったのが、「下院非米活動委員会」とジョセフ・マッカーシー上院議員でした。1938年にファシストを摘発するために発足した「下院非米活動委員会」が再編成され、今度は共産主義団体やその協力者の監視と告発を行います。一方、マッカーシー上院議員が共産党に協力的であったアメリカ政府関係者を次々と告発し、排除しようとします。下院非米活動委員会は特にハリウッドに目をつけます。

そもそも保守派の団体や、戦前からモンロー主義を訴えていた団体は、ハリウッドを「反体制的な活動の温床」「危険的な思想を伝達しようとする確信犯」として、以前から批判していました。それに対して1947年にウォルト・ディズニーを筆頭にハリウッドは「アメリカの理想を守るための映画同盟」を設立し、新共和主義的であると思われないための規制を設定します。それでも“サヨク"のイメージは払拭されず、同年に業界紙「ハリウッド・レポーター」の設立者は、共産党と関わりがある業界関係者のリストを誌面に掲載します。それを元に下院非米活動委員会は公聴会を開き、業界人を法廷審問に召喚しました。その結果、証言を拒否した「ハリウッド・テン」(脚本家を中心とした10人の映画産業関係者)は侮辱罪で訴追されて有罪判決を受け、業界から追放されます。これを「ハリウッド・ブラックリスト」といいます。

その後、マッカーシズムの嵐が吹き荒れ、ブラックリストは拡大していきます。ブラックリストされた映画関係者は、60年代前半にそのリストが消滅するまで、完全に干されるか、かろうじて仕事を得ることができても匿名で活動したりクレジットされないという状態が続きました。このことはストゥディオ・システムの解体によって衰退期に入っていたハリウッドに更なる打撃を与えました。


4.テレヴィの普及と変わるアメリカ国民の生活習慣

第二次世界大戦の前のアメリカにおいて、映画観賞は国民の最大の娯楽でした。国民の半数以上が週に一回は映画館に足を運んでいたといわれています。毎週の動員数は戦時中も安定して伸び続け、戦後の1946年には9000万人(人口の約60%というピークに達しました。ところが戦後の時代において、国民の生活習慣は大きく変わることとなります。帰国した退役軍人は復員軍人援護法の下で大学に通ったり、あるいは結婚して家族と共に都市部を離れ、郊外で暮らすようになりました。勉強したり家族と過ごす時間が増える一方で、映画に行く回数が減っていきました。

そして何より人々の生活習慣を大きく変えたのが、テレヴィという“魔法の箱"が一般家庭に普及したことでした。1940年の時点で全米のテレヴィの台数は4000台にも満たなかったのに対して、1960年ごろまでには90%の家庭にテレヴィが置かれるようになりました。“マス・メディア"の役割を乗っ取ったテレヴィは人気トレンド、ファッション、言葉遣い、価値観などに大きく影響するようになります。

ストゥディオ・システムの解体と赤狩りに加えて、テレヴィの出現はアメリカの映画業界に更なる追い討ちをかけました。しかし、これは古典的なハリウッドの“死"であると同時に、業界の生まれ変わりを引き起こしました。映画館という主な収入源を失った大手映画会社は所属の俳優らの多くを解雇します。彼らの多くはテレヴィ業界へと移行することにします。それまでハリウッド映画は基本的にプロデューサー主導であったのに対して、今度は作品の収益性を確保するためにスポンサーは大物俳優、大物監督、大物脚本家の起用を要求するようになります。これはアメリカの映画業界におけるタレント・エージェンシーの台頭へと繋がります。また、大手映画会社の影響力が衰えることによって、独立系の映画会社が勢いをつけることになります。1959年ごろには、ハリウッド映画の70%くらいが独立系によって製作されるようになっていました。

映画業界は客を呼び戻そうと、あの手この手を使います。例えば戦後の10~20年間にアメリカ各地にドライブ・イン・シアターが数多く作られました。この背景には、前述の郊外に引っ越した退役軍人と、彼らの子供であるベビー・ブーム世代の出現があります。それまでは都市部の映画館に歩いて行くことが主流であったのに対して、戦後は郊外を中心に“家族向け"のドライブ・イン・シアターのブームが起こります。

また、大手映画会社はテレヴィとの差別化を図るために様々な新しい技術の導入を試みます。“シネラマ"や“シネマスコープ"といったワイド・スクリーンのフォーマット、3D映画、ステレオフォニック音響(いわゆるステレオ・サウンド)など、アトラクション性の高い技術です。

同時に、映画作品の内容も進化する必要がありました。ストゥディオ・システムの崩壊によって、大手映画会社はより少ない本数の、興行成績が見込める作品にお金を集中的につぎ込むようになります。これは70年代の、いわゆる“ブロックバスター映画"(娯楽的な超大作)の誕生へと繋がります。また、テレヴィでは見られないような内容を提供するために、それまでのヘイズ・コードの規制を振り切って、よりエッジの効いた“アブナイ"作品を作る流れも生まれました。より暴力的で道徳的に曖昧なフィルム・ノワールや、不倫をテーマにしたドラマ、女性の性的魅力を描いたセックス・コメディが製作されるようになります。

ハリウッドが1910年代にアメリカ映画産業の中心となり、その約半世紀後に大危機が訪れたように、ハリウッドが生まれ変わった戦後の時代の約半世紀後に当たる今日にも、映画産業は、再び新しい存続の危機に直面しています。近年の液晶パネル、4Kや8K対応テレヴィの普及、そしてネットの動画配信サーヴィスの台頭によって、「映画館ならではの体験とは何か」が改めて問われています。ハリウッドはこうした状況に対して早くから危機感を抱いていたようで、2000年代以降は、再び映画館でしか体験できない3D映画が製作されるようになったり、もはや遊園地のアトラクションと変わらない“4D"の映画館も登場しました。さすがアメリカ、いつの時代もハリウッドが出す答えは、“よりデッカく"、のようです。

そして2020年、新型コロナウイルス感染症のパンデミックが起こり、世界各地でロックダウンが実施されたり、外出自粛が呼びかけられました。そんな中、今年の目玉となる超大作と期待されていたクリストファー・ノーラン監督の新作『TENET テネット』の公開の行方が、世界中の映画ファンに注目されています。映画館に観客を呼び戻す最大の起爆剤であると同時に、この先の映画業界を占う指標となるからです。この作品は当初は7月17日に公開される予定でしたが、一度7月31日に変更され、更に8月12日に変更されました。ここ数週間でアメリカ国内のコロナの感染状況がどんどん悪化していることを受けて、7月下旬現在、一旦公開は無期延期となっています。ハリウッド、つまりアメリカ的な映画というものは、テレヴィの出現以来の危機に直面しているのです。


CINEMA & THEATRE #056

第二次世界大戦後の赤狩りとハリウッドの黄金期の終焉 (前編) – 世界の映画史 (4)


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